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トップページ > 国公労連の紹介 > あの時の一枚 第6回〜第10回
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あの時の一枚/写真で振り返る国公労働運動の歴史
 

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あの時の一枚 〈6〉 ●国公労連結成30周年

■ 真の男女平等の実現を、母性保護を守れ
 人事院規則10−7改悪に反対(1985年10月8日)

 
     
   
 

実効ある真の男女平等法の制定と母性保護切り捨ての労基法・人事院規則改悪に反対してたたかった国公女性労働者 (1985年10月8日、公務員共闘婦人連絡会の人事院前行動)

 1985年5月17日、男女雇用機会均等法が成立した。国連の婦人差別撤廃条約の批准期限である85年までに雇用の男女平等法制定が求められていたが、「均等法」は昇進、昇格などの男女差別への罰則がないなど実効性が乏しいばかりか、女性労働者の時間外、深夜勤務などへの歯止めを奪う母性保護・健康破壊の労働基準法改悪を伴うものだった。「こうした母性保護の切り捨ては許さず、真の男女雇用平等を」と女性労働者のたたかいは大きな盛り上がりを見せた。とくに国公労連婦人協は、数次の全国上京団行動を含め国会の議員面会所を埋め尽くす要請行動を繰り返し実施し、運動に大きく貢献した。  労基法改悪と「均等法」の成立後、国公女性労働者は、女子公務員の母性保護規程である人事院規則10−7改悪を許さないたたかいに果敢に取り組んだ。
(国公労調査時報 bT10 2005年6月号)

 
     
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あの時の一枚 〈7〉 ●国公労連結成30周年

■ 「命の綱、長寿園の灯を消すな」
 87歳の高橋定一さんが支援の訴え(1986年3月5日)

 
     
   
 

国立療養所・長寿園を守る闘争の象徴的な存在だった高橋定一さん (東京・日比谷野外音楽堂、1986年3月5日)

 86春闘で国公労連と日本医労協は国立病院の統廃合・移譲反対を中心課題に中央集会を共催した。当時、国立医療機関つぶしの突破口とされていたのは群馬県吾妻(あがづま)町坂上(さかうえ)にある国立療養所・長寿園の存続問題だった。地元から、この集会に参加した当時87歳の高橋定一さんは、マイクを強く握りしめ、「みなさんのお力を、どうか、どうかお貸してください。長寿園を守ってください」と、とつとつと訴えた。当時65歳以上の人口は全国平均は9.9%だったが、長寿園のある坂上地区は18%。長寿園がなくなれば坂上は無医地区になる。福田(元首相)、中曽根(当時首相)、小渕(後に首相)と自民党の有力政治家を輩出していた保守の牙城といえる選挙区地域だったが、「命の綱、長寿園を守れ」という全医労長寿園支部の地道な運動が住民を大きく動かしていた。
(国公労調査時報 bT11 2005年7月号)

 
     
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あの時の一枚 〈8〉 ●国公労連結成30周年

■ 「でっかく燃えた3日間」―空前!2780人が結集
 ’86国公青年交流集会「エキサイティング・志賀」 1986年5月25日

 
     
   
 

「エキ・志賀」の大運動会で総合優勝を飾った北海道と東北ブロック国公青年たちの勝利の大ガッツポーズ (1986年5月25日、長野県・山ノ内町)

 本当に大勢の国家公務員の青年が、のどかな志賀高原のふもとに各県ごとに集まってきた。その数2780人。’86国公青年大交流集会「エキサイテイング・志賀」(5月24〜26日)は、空前の青年大交流集会だった。タレント、レオナルド熊さんの講演に笑いがはじけ、堀内孝雄コンサートでは全員が総立ちになり、拍手と歓声が会場を揺さぶった。大運動会では若さとパワーがぶつかりあい、新たな友情と恋、そして国公労働運動の担い手を生んだ。構想3年、2年前に実行委員会を立ち上げ、本格的準備がすすめられた。「とにかくビッグに」と財政活動にも力を入れ、参加目標を達成するための努力が地道につづけられた。「エキ・志賀」はその後の国公青年運動が大きく飛躍するための財産をたくさん残した。それは4年後の「エキサイティング・信州」(参加2539人)へと確実に受け継がれていった。
(国公労調査時報 bT12 2005年8月号)

 
     
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あの時の一枚 〈9〉 ●国公労連結成30周年

■ 新しいナショナルセンター確立へ
 統一労組懇1万人総決起集会(1988年12月18日)

 
     
   
 

統一労組懇12.18総決起集会には国公労連から1100人が参加した (1988年12月18日、千葉県・浦安市の東京ベイNKホール)

 国公労連が当時加盟していた総評は、戦後の労働運動の積極的、戦闘的な伝統を投げ捨て、89年解体が確定的になっていた。日本の労働組合運動は大きく右翼的に再編成されようとしていた。これに反対する統一労組懇(統一戦線促進労働組合懇談会)は、新しいたたかうナショナルセンターの確立を正面にかかげ、約1万人が参加した総決起集会を88年12月に開いた。国公労連はこの集会に、翌日開催の「国公労連全国活動者会議」と連動させて約1100人の参加で臨んだ。
 明けて89年、たたかうナショナルセンター確立に向けての動きは急ピッチにすすんだ。国公労連は10月末の第28回定期大会で、「たたかうナショナルセンター全労連」加盟を決定した。そして11月18日、全労連は27単産、41地方組織140万人で結成された。
(国公労調査時報 bT13 2005年9月号)

 
     
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あの時の一枚 〈10〉 ●国公労連結成30周年

■ 給与遅配に怒りの座り込み(1990年3月16日)

 
     
   
 

給与遅配という異常事態に政府の使用者責任を厳しく追及して座り込む国公労働者 (1990年3月16日夜、東京・霞が関の旧総務庁=霞が関合同庁舎第4号館前)

 この年、国家公務員の3月分給与と年度末手当が遅配になった。前代未聞のことだった。当時の自民党・小沢一郎幹事長は、野党が補正予算と関連法案の「一括処理」に賛成しないかぎり、補正予算の採決を行わないという主張を押し通した。その結果、予算成立が遅れ、給与遅配となったのだった。この事態に全国の国公労働者は怒った。国公労連は、霞が関での座り込みをはじめ、全国で政府の使用者責任を追及する抗議行動を行い、海部俊樹首相らを給与法違反で東京地検に刑事告発した。80万人を超える国家公務員の給与遅配は重大な社会問題と、マスコミは国公労連の抗議行動を連日報道した。
(国公労調査時報 bT14 2005年10月号)

 
     
 

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