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あの時の一枚/写真で振り返る国公労働運動の歴史
 

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あの時の一枚 〈44〉 ●国公労連結成まで

■ 統一ストライキでたたかい、国公労働運動の力量を高めた11・13闘争(1969年11月13日)

 
     
   
 

2000人が結集し、“2・1ゼネスト以来の空前の大集会”となった全商工(現・全経済)本省支部11・13職場大会(早朝スト)=1969年11月13日、東京・霞が関の旧通産省中庭

 1969年の賃金闘争はアメリカのベトナム侵略反対闘争、安保条約反対、沖縄即時無条件返還など大きな政治課題とも結合し、70年の安保条約固定期限終了前年のたたかいとして組織された。8月の人事院勧告は平均10.2%、9年ぶりの2ケタ勧告だった。
 国公共闘は9月23日に臨時拡大評議会(大会)を開き、5月完全実施、最低引き上げ4000円などの人勧後の要求を決めるとともに、総評、公務員共闘の統一行動日の11月13日を、自らの要求実現のため「実力行使(ストライキ)でたたかう」ことを決定した。国公共闘の統一ストライキは、60年、61年の安保反対、国公法改正阻止以来のことである。国公共闘は、統一ストを成功させるために、職場の末端から大衆的な学習・討論を行い、11・13闘争を準備した。
 11・13統一行動は、総評、中立労連はじめ、62単産、94万2000人が参加し、沖縄でも16単産、3万8000人が参加する大規模なストライキとなった。国公労働者は、各省当局による妨害・干渉を乗り越え、11・13闘争を成功させ、70年代における賃金闘争の基礎を築いた。
(国公労調査時報 bT48 2008年8月号)


 
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あの時の一枚 〈45〉 ●国公労連結成まで

■ 革新の灯台―京都蜷川民主府政を守れ(1970年2月)

 
     
   
 

6選をめざす蜷川虎三京都府知事(右)を激励する国公共闘の春山明事務局長(左端)、京都国公の川口是議長(京大教授)=1970年2月20日、京都市内

 1970年代は革新高揚のなかでむかえた。70年代の政治戦の最初の舞台となったのは、70年4月の京都府知事選挙だった。自民党は公明党、民社党と反共・反動3党連合を結成し、統一戦線を基礎とする20年来の蜷川虎三民主府政打倒に全力をかたむけた。選挙戦は日本の選挙史上かつてない激烈な政治戦となった。69年12月総選挙では反動3党63万票にたいし革新統一の社会党、共産党は34万票だった。しかし、広範な団体・個人が参加する統一戦線勢力は、「革新の灯台、京都民主府政を守れ」をスローガンに選挙戦をたたかい、14万票の差をつけて蜷川知事6選を勝ち取った。当時、「革新統一の力は1+1=2ではなく3にも4にもなる」といわれた。
 なによりも、「京都には、大企業や、高級官僚が甘い汁を吸うようなヒモはない」(国公労新聞70.3.15付インタビュー)と言い切る蜷川知事の姿勢が府民から圧倒的な支持を得ていた。蜷川府政の時代、京都府庁正面玄関には「憲法を暮らしの中に生かそう」のたれ幕がかかげられ、憲法、地方自治法、教育基本法にもとづく住民本位の府政が貫かれていた。
(国公労調査時報 bT49 2008年9月号)


 
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あの時の一枚 〈46〉 ●国公労連結成まで

■ いっせい地方選挙、沖縄全面返還闘争と結合してたたかわれた71年賃金闘争(1971年7月15日)

 
     
   
 

7・15全国統一行動にリボン闘争で参加した全司法愛知支部の仲間(本庁早朝職場集会に200人以上が参加)=1971年7月15日、名古屋高裁・地裁中庭

 1971年4月のいっせい地方選挙では、首都東京で美濃部革新都政をまもりぬき、大阪でも黒田革新府政を誕生させた。春闘では公労協、全交運が24時間のストライキに立ち上がり、公務員共闘も5月20日、初めて春闘ストライキを実施した。国公共闘は、5月27、28日の臨時拡大評議会で、「もし政府・人事院が積極的内容での回答を示さないときは、7月中旬に‥‥ストライキに立ち上がる」ことを満場一定で決定した。国公共闘としてはじめて公然と「ストライキ宣言」を発した(それまでは「実力行使」という表現をつかっていた)。
 7月15日、国公共闘の6組合が29分スト、その他リボン行動などで8万人が全国統一行動に結集した。この行動にたいし減給5、戒告66、訓告214など9単組1万3000人に不当処分がくわえられた。人事院は平均11.74%、8578円、5月実施等の勧告をおこなった。
 給与法改正案は12月14日、公務員労働者のねばりづよいたたかいと沖縄全面返還をめぐる運動のたかまりを反映して、衆参内閣委員会で「その実施を4月1日とするよう配慮すべき」との付帯決議をつけ、成立した。これが翌年の4月実施にむすびつくこととなった。
(国公労調査時報 bT50 2008年10月号)


 
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あの時の一枚 〈47〉 ●国公労連結成まで

■ 初の国公青年大交流集会がひらかれた(1972年5月5日)

 
     
   
 

401人が参加した初の第1回国公青年大交流集会=1972年5月5〜7日、千葉県九十九里

 1972年5月5日から7日まで初めての国公青年労働者の大交流集会が千葉県・九十九里でひらかれた。400人を超す国公青年が、北は稚内から南は鹿児島まで42都道府県20単組から参集した。それまでの青年交流集会は各単組ごとにおこなわれていたが、たたかいが大きく発展するなかで、すべての国公青年のつどいをとの声がつよまり、国公共闘青婦協、国公共闘主催で開催された。
 参加した仲間の「声」(国公労新聞)が、この集会の意義をものがたっている。「地方にいればともすれば俺たちだけが活動してもどうなるものかと思いがちである。今集会で多くの青年がたたかっていることを確認し、勇気が出た」(全厚生・愛媛、22歳、男)、「集会に参加するまで国公青婦協なんて知りませんでした。今後もこのような集会に参加していきたいと思います」(全司法・福岡、22歳、女)
 交流集会は、翌73年10月には、兵庫・淡路島で420人が参加して第2回がおこなわれ、その後も継続して開かれ、1986年5月の86国公青年大交流集会「エキサイティング・志賀」(長野 県山ノ内町)には空前の2780人の国公青年がつどい、大きく燃え上がった。
(国公労調査時報 bT51 2008年11月号)


 
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あの時の一枚 〈48〉 ●国公労連結成まで

■ 1969年いらい毎年開催され発展してきた国公全国婦人交流集会(1973年4月6〜7日)

 
     
   
 

のべ270人参加した第5回国公全国婦人交流集会=1973年4月6〜7日、東京・国労会館

 国公全国婦人交流集会は、1969年4月に「女性の悩みや怒りを語り合い、活動を交流しよう」と東京で第1回集会が約100人の参加で開催された。第1回集会の目的は、(1)婦人独自の要求と運動を引き継ぐ(2)国公労働者全体のたたかいに婦人を結集し、統一要求、統一闘争をすすめることにあった。これ以降、婦人交流集会は毎年開催されてきた。
 第5回国公全国婦人交流集会は、1973年4月6、7日、17単組、20都道府県国公のべ270人(2日間の参加者の合計)が参加して、東京で開かれた。ちょうどオイルショックによる物価高騰が背景にあり、春闘のさなかでの開催だった。
 婦人交流集会は、だれでも自由に参加できる、幅広い交流ができる、国公女性の交流の場として発展してきた。男女差別の是正や母性保護、育児休業・介護休暇制度など働く権利の拡充、定員削減など合理化と労働条件の改善、仕事の話、女性の生き方、平和や民主主義、女性組織の確立強化の課題まで、幅広い課題で国公女性運動をリードする役割を果たしてきた。
(国公労調査時報 bT52 2008年12月号)


 
     
 

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