国公労連
国民のための行政・司法へ ストップ!憲法改悪 サイトマップ 更新履歴 個人保護法に関する宣言 リンク
Action 私たちのとりくみ Journal 定期刊行物 Archives 資料 Mail News
トップページ > 国公労連の紹介 > あの時の一枚 第29回〜第33回
  国民のための行政・司法へ
あの時の一枚/写真で振り返る国公労働運動の歴史
 

<< あの時の一枚 〈24〉〜〈28〉 | 目次 | あの時の一枚 〈34〉〜 >>

 
     
 

あの時の一枚 〈29〉 ●国公労連結成まで

■ 国公労連のルーツ全官労から日官労、官労へ
官労、最賃9970円要求をかかげ果敢にたたかう(1952年)

 
     
   
 

最低賃金9970円、生活補給金1万円を要求して座り込む官労(官庁労働組合協議会)に結集する国公労働者(1952年、月日・場所は不明)

 国公産別組織のルーツは全官労(全国官庁職員労働組合協議会=結成1946年9月26日)である。全官労は51年1月25日、加盟14組合が参加して大会を開き、日官労(日本官庁労働組合協議会)と改組した。同年7月21日、非現業官庁(国公)労働運動のさらなる戦線統一をめざし、官労(官庁労働組合協議会)結成大会が東京・上野博物館講堂で開かれた。官民は発足時正式加盟22組合、オブ6組合だった(機関紙「官労」廃刊号=53.6.1付より)。官労結成により、日官労は発展的に解消した。
 官労は翌52年2月、最低賃金9970円(高卒新採3級3号)要求を確立した(当時3級3号4400円)。官労は7月21日から人事院座り込み闘争に突入したが、26日に警官隊が導入され、28日14人が検束された。同日組合は麹町署におしかけ、全員釈放をかちとった。3級3号勧告は5500円だった。8月28日、吉田内閣は抜き打ち国会解散を強行。解散による賃上げ遅れを許さぬため、官労は繰り上げ支給と生活補給金1万円即時支給の緊急要求を掲げ、行動・交渉を強化。その結果、10月10日、閣議決定により繰り上げ支給を実現した。
(国公労調査時報 bT33 2007年5月号)

 
▲ページの先頭へ
     
 

あの時の一枚 〈30〉 ●国公労連結成まで

■ 官公労働戦線の統一実現と総評加盟
官労解散、国公組合は官公労にいっせい加盟(1953年6月)

 
     
   
 

官労は解散にあたって、全官労時代から通巻で第191号となる機関紙「官労」終刊号で戦後7年間の「官公庁労働運動史概略」を特集した(1953年6月15日付、「官労」終刊号)

 1952年の破防法反対闘争のなかで、官労(官庁労働組合協議会)は官公労(日本官公庁労働組合)との統一行動を発展させ、組織統一の機運が高まっていた。  官労は52年6月の拡大委員会で「平和四原則を守る総評に即時加盟」「官公労との共闘を強化し、すべての官公庁労働戦線の統一」方針を確立した。当時、官労は33組合8万5000人を結集する非現業国家公務員の組合だった(官労については前号参照)。一方、官公労(1949年12月結成)は、国労、全逓、全電通、日教組、自治労協(現・自治労)、全農林、大蔵職組など公企体、地公、国公の19組合約155万人を結集していた。官公労働戦線の統一に向け、官労と官公労で組織統一の懇談会が数十回開かれ、@官労の組合は官公労にいっせい加盟手続きをとるA官公労は官労全組合の加盟を確認するB官労を解散する、ことを確認した。官労は6月8日に解散し、官公労働戦線の統一を実現した。7月、官公労国公部会が発足した。官労組合のなかで総評加盟の組織手続きが早かった全医労、全商工(現・全経済)、全建労、全労働は、7月の「第4回総評大会には、正式に代議員を送ることになった」(「官労」終刊号より)。
(国公労調査時報 bT34 2007年6月号)

 
▲ページの先頭へ
     
 

あの時の一枚 〈31〉 ●国公労連結成まで

■ ベアゼロ勧告時代と国公共闘結成(1956年)

 
     
   
 

一時金0.75月分の閣議決定に対し、夏季手当1ヵ月分支給の増額を要求して首相官邸へ押しかける官公労、国公共闘の組合員と、規制する警官隊(1956年6月頃、東京・永田町)

 1954年、人事院は官民格差が9%以上あることを認めながらベアゼロ勧告にした。翌55年もベアゼロだった。2年連続で賃金を凍結された国公労働者は憤慨していた。それが国公各組合の結束をいっそうつよめた。1956年2月7日、官公労(日本官公庁労働組合)国公部会としてゆるやかにまとまっていた国公の労働組合は、官公労に結集したまま国公共闘(日本国家公務員労働組合共闘会議)に改称し、相対的に自主性をつよめた。
 春闘2年目となる56春闘で民間労働者は平均840円、公企体労働者は600円の賃上げを勝ち取った。国公共闘は、職場や地域での集会、デモ、定時退庁、はげしい波状交渉等で要求を人事院に受け入れさせるたたかいに取り組んだ。56年7月、人事院は、従来の通し号俸を基調にした4職種・15級の賃金体系を8職種・16俸給表に分断する俸給表全面改訂の勧告をした。そして、「新俸給表への切り替えにあたって、全員の約1号俸アップとともに、新たに3月に0.15ヵ月分の年度末手当を新設することで、全体として約6%の改善原資を含んでいたが、ベースアップそのものはまたもや回避した」(『国公労働運動五十年史』)のだった。
(国公労調査時報 bT35 2007年7月号)

 
     
▲ページの先頭へ
     
 

あの時の一枚 〈32〉 ●国公労連結成まで

■ 勤評反対闘争と国公労働者(1955〜1959年)

 
     
   
 

勤評の強行と不当処分に抗議して総評、国公共闘の支援を受け、350人余の全国税組合員 が東京国税局前で抗議行動(1959年5月9日)

 1952年4月、人事院は勤務評定の根本基準(人事院規則10−2)を施行した。国公の各組合 は、勤評に反対して立ち上がり、実施させないでいた。しかし、55年11月の公務員制度調査会 答申が出されたあと、政府と人事院は勤評の実施を督促し、各省庁も勤評を強行しはじめよう とした。しかし、国公の各組合は、粘り強いたたかいで実施させなかった。58年春闘では日本 教職員組合が勤評実施阻止を最大の課題として国民的規模でたたかい、公務員労働者全体の闘 争に大きなはげましをあたえた。
 全国税は55年8月の中央委員会で、勤評阻止方針を確立し、全国で勤評反対闘争を広げてい った。一方、国税庁当局は、56年4月、他省庁にさきがけて業務命令による勤務評定を実施し、 労務管理体制を徹底的に強化した。これに対し、全国税は戦闘的にたたかい組織を拡大・強化 し、58年12月に単一化を実現した。全国税の前進におそれをなした当局は、その後、違法かつ 卑劣な組織破壊・分裂策動を強めることとなる。
(国公労調査時報 bT36 2007年8月号)

 
▲ページの先頭へ
     
 

あの時の一枚 〈33〉 ●国公労連結成まで

■ 日本を揺るがせた歴史的な安保闘争(1960年6月)

 
     
   
 

安保条約反対総決起集会にひるがえる国公共闘旗 (1960年6月18日と思われる、東京・三宅坂の国立劇場予定地)

 日本をいっそうアメリカに従属させ、戦争の危機を増大させる安保条約の批准に反対するため、社会党、共産党、総評を中心とした安保反対国民会議は、全国二千数百を超えて結成され、59年4月の第1次から60年10月の第23次まで1年半にわたって大規模な統一行動を実施した。日本を揺るがせた歴史的な安保闘争である。60年6月18日、最大規模の33万人の国会デモが行われ、4万人が徹夜で座り込んで抗議するなか、翌19日午前零時、新安保条約は自然成立した。しかし、6月22日、戦後最大の600万人の労働者、6万の商店が参加した第3次ゼネストや、その後も数次の統一行動が実施され、ついに、岸信介内閣は退陣に追い込まれた。
 国公共闘は、賃金闘争と結合して安保闘争に取り組んだ。国公共闘は、6・4第1次ゼネストと6・15第2次ゼネストで1時間、6・22第3次ゼネストでは2時間の時間内職場集会を実施して、歴史的な安保闘争をたたかいぬいた。
(国公労調査時報 bT37 2007年9月号)

 
     
 

<< あの時の一枚 〈24〉〜〈28〉 | 目次 | あの時の一枚 〈34〉〜 >>

 
  ページの先頭へ