【国公労連第46回定期大会】           2000年8月28日
中央執行委員長あいさつ
国公労連中央執行委員長     藤田 忠弘
 大会ご参加の皆さん、大変ご苦労さまです。私はまずはじめに、皆さんがたがこの一年間もまた、懸命に奮闘され、その蓄積にたって本大会に結集されたことに心から敬意を表する次第です。  また、大変ご多忙のなかを、私どもの大会のためにご臨席下さった来賓の皆さまがたに、日頃のご指導・ご鞭撻に対する感謝とあわせ、心からのお礼を申し上げる次第です。

 さて、すでに明らかなとおり、本大会は、国公労連にとって20世紀をしめくくる大会です。そして、これからはじまる新しい年度は、20世紀と21世紀をつなぐ一年間となります。
 その意味において、本大会は「歴史の節目」に位置する一年間の出発点といっても過言ではないと思います。また、そうであるだけに、本大会に対する仲間の期待と関心は、従来以上のものがあると思います。  本大会が、そうした期待と関心に真正面からこたえるものとなりますよう、皆さんがたがご尽力下さることを、まずもってお願い申し上げる次第です。

 いまも、私は、「歴史の節目」ということを申し上げましたが、このことは、単に時間の概念にとどまるものではないと思います。われわれが直面している運動課題をめぐる情勢の展開自体が、否応なく「歴史の節目」を実感せざるを得なくしているのだと思います。
 その一つが、賃金闘争をめぐる状況です。率直に申し上げて、今年の人事院勧告は、人事院勧告制度とは何か、労働基本権の代償措置というものがあり得るのか、公務員の賃金闘争はどうあるべきか、などの諸問題について、われわれにあらためて鋭く問いかけたと思います。
 政府や人事院が、人事院勧告制度を労働基本権制約の代償措置と位置づけていることは周知のとおりです。そのもとで、われわれは、本来的な意味で労働基本権に対する代償措置などというものはあり得ない、と考えてきたところです。
 同時に、かりに人事院勧告制度が労働基本権制約の代償措置というのであれば、それは、あくまで公務員の福祉、利益の保護機能としてのみ作用すべきであるとの立場から、その機能を拡大する方向で対人事院闘争というものをとりくんできたことも、また事実です。
 そのような立場からみますと、今年の人事院勧告は労働基本権制約の代償措置とは無縁の存在であるといわざるを得ないわけです。なぜなら、いわれている代償措置とは、労働条件決定における労使対等決定原則の否定の上になりたっているものです。だとすれば、そのような代償措置に対して、労働条件の一方的改悪の権限まで委任するということは、二重の暴挙であるし、論理的にあり得ないことといわねばなりません。  その意味からすれば、今年の勧告は、労働条件の一方的改悪を、それも2年連続して勧告しているという点で、まさしく過去最悪のものだと思います。
 しかし、このことは、何もいまにはじまったことではありません。ふりかえってみますと、50年余におよぶ人事院勧告制度の歴史は一貫しています。もちろん、時に応じて程度の差こそありますが、それは、わが国の賃金抑制機能としての本質をつらぬいてきたと思います。そして、今年の勧告がもっとも露骨なかたちで、その本質をさらけ出すにいたったわけです。
 それでは、時どきの人事院勧告に影響をあたえてきた条件は何であったのか。結論的に申し上げれば、一つは、時どきの政治・経済の動向でありましたし、もう一つは、われわれ自身のたたかいをふくむ労働者部隊全体のたたかいの前進状況であったと思います。これが、歴史の教訓だと思います。  この教訓をもとに、いまの時期あらためて重視すべきだと考えますのは、国民とともにたたかう賃金闘争、という課題です。
 あらためて申し上げるまでもなく、公務員の賃金は、国民の理解と納得が前提にすわらなければなりません。その理解と納得をひろげる条件は、単に公務員賃金の社会的影響力を問題にするだけでは不十分です。何よりも大切なことは、公務員労働者に対する信頼の獲得だと思います。
 公務員労働者に対する信頼とは何か。その土台は、公務員労働者が真に国民本位の行政の実現に努力しているかどうかにあると思います。その姿が具体的に見えてこそ信頼が生まれるものと確信します。
 このことは、賃金闘争と行政民主化闘争の結合であり、一体化を意味すると思います。いいかえれば、行政民主化闘争が土台にすわらないような賃金闘争はなりたたない、ということだと思います。
 このことの実践は大変骨の折れることではあります。しかし、この実践なしに新たな前進はあり得ないし、同時に、この実践は、われわれの運動に大きな展望を切りひらいてくれるものと確信します。

 「歴史の節目」ということにかかわって、もう一つ、行革闘争について申し上げたいと思います。
 いよいよ、年が明ければ1府12省庁体制や独立行政法人化がスタートします。その関係からしても、行革闘争は新しい段階に入るといわざるを得ません。
 問題は、行革闘争の新しい段階とは何か、ということだと思います。私なりの結論を端的に申し上げれば、それは、いま国公労連が綱領的にかかげているスローガン「憲法を暮らしと職場、行政のなかに生かそう」、これの具体的な実践の段階だと考えています。
 来年からはじまる新省庁体制などについて、いまもなお、これを賛美する論調が少なくありません。しかし、率直に申し上げて、この「行政改革」は、歴史の流れからみれば、歴史の歯車の逆転にほかならない、といっても過言ではないと思います。さらにいえば、それは、日本国憲法を、国民生活からますます手のとどかないところに遠ざけてしまうもの、といってもさしつかえないと思います。
 いちいちの論証は省略しますが、国土交通省と厚生労働省発足は象徴的です。それは、公共事業には50兆円もの税金を投入する一方で、社会保障には20兆円しか使わないという、この国の政治・行政の質そのものを、行政機構の面で見事に裏打ちしていると考えるからです。今回の「行政改革」の本質を、これほど端的に、わかりやすく物語っているものはないと思います。このことからしますと、行革闘争の新しい段階とは、反国民的な行政を許さないたたかいと、国民本位の行政の実現をめざすたたかいに、一段と力を発揮すべき段階であることが明らかだと思います。
 ところで、これからの行革闘争をすすめるうえで、足かけ4年間にわたるたたかいの教訓は大変貴重だと考えます。その真髄は、「国民のなかへ、国民とともに」というスローガンのなかに集約されているところです。
 いろいろな機会に申し上げてきたことのくりかえしになりますが、4年前、われわれが行革闘争にたちあがった当時、世の中は、まさに「行政改革」一色でした。「行政改革」こそがこの国を救う、という世論誘導のもとで、「行政改革」に反対する者は「非国民」といわんばかりの風潮が支配的でした。そのような足のすくむようななかを、全国の仲間たちは、勇を鼓して地域に足をふみ出したのです。そして、ねばり強く世論に訴えてきたところです。
 そうした結果、こんにちでは、決して劇的な変化などとはいえませんが、無視できない世論の変化がはじまっていることを確信することができます。本当の意味での「行政改革」とは何か、について考える国民がふえていることは事実ですし、国会内でも、われわれの主張に賛意を示してくれる議員さんもふえています。これらのことは、「国民とともに、国民のなかへ」という立場からの実践こそが、運動前進の土台であるし、たしかなる保障であることを立証したと思います。あらためて、この点を確信にして、新たな前進を決意しあいたいと思います。

 さきほど来、私は「歴史の節目」ということを申し上げてきましたが、われわれは、あと数ヶ月もすれば、まぎれもなく新しい世紀・21世紀に足をふみ入れていくことになります。
 その際、20世紀をどう評価するかは大変重要な問題だと思います。否定面や肯定面が様ざまに存在しましたから、なかには、否定的側面を中心的に論ずるむきもありますが、私自身は、やはり前進的にとらえるべきだと考えております。とくに、科学・技術の飛躍的な進歩、平和と民族自決・人権と民主主義をめぐる各国人民のたたかいの歴史的な前進などは、まさに20世紀を特徴づける人類の偉大な到達点だと思います。
 同様に、いまのわが国労働組合運動の状況をみますと、たしかに「ルールなき資本主義」といわれる状況が横行するなど、否定的側面がめだちます。しかし、歴史の流れのなかでとらえれば、こうした状況のなかにこそ新たな前進の可能性が存在しており、その点を見落としてはならないと思います。
 歴史の流れという点で申し上げますと、わが国にはじめて労働組合が誕生したのが1897年ですから、その歴史は、まだ100年余にしかすぎません。しかも、前半の半世紀は絶対主義的天皇制のもとにありましたから、まがりなりにも民主的な土俵にのって、まだ50年余にすぎないわけです。
 そのなかで、全労連が誕生して、ようやく10年を経たばかりです。その全労連の組織人員は150万人をこえたばかりです。この到達点をどうみるかは、様ざまな議論のあるところだとは思いますが、少なくとも、財界など支配層の思惑に逆行して、全労連は確実に前進している、という点だけは誰もが一致して認めるところだと思います。そして、その全労連の存在こそが、わが国労働組合運動前進の最大の拠りどころであると確信いたします。
 全労連は、「日本の労働戦線統一の母体となる」ことを宣言してスタートいたしました。その立場からしますと、いまは緒についたばかりというべきか、道なかばというべきか、そういう段階だと思います。まさしく今後の奮闘が成否のカギをにぎっているわけです。われわれ国公労連は、この偉大な事業の一日も早い達成のため微力をつくさねばならないと思います。
 いま、われわれのまわりにも、「団結」とか「たたかう」という用語に背をむけたがる人びとが少なからずいることはたしかです。しかし、そのことは、必ずしも「団結」とか「たたかう」こと自体を否定しているわけではないと思います。職場の状況は、決して可能性まで失っているわけではないと思います。  そういう時であるだけに、労働組合は、その存在意義を見直す必要があるのではないでしょうか。誤解を恐れずに申し上げれば、労働組合が愚直な面を失ってはいけないと思います。もちろん、変化に対する的確な対応が重要なことはいうまでもありません。そのことを前提に、あえて申し上げれば、愚直といわれようと、労働組合は、その「初心」なり「原点」を忘れてはならないと思います。
 いささか「釈迦に説法」のようなことを申し上げてしまいましたが、「歴史の節目」ということでお許し願いたいと思います。「歴史の節目」の大会にふさわしい議論をお願いしてごあいさつといたします。

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