国公労新聞 第1034号

空の安全をまもりたい
 ―成田空港24時間の舞台裏

 日本の空の玄関・成田空港。多くの外国の人々や家族づれが行き交います。出発ロビーに立って、嬉々とした顔で大きなトランクを転がし、楽しそうに話している姿を眺めていると、何か胸がワクワクし、どこか遠くの国へ行ってみたくなるから不思議です。JTBの調べによると、2000年問題にゆれにゆれた、この年末年始にも成田空港から55万人もの人々が海外へ飛び出すそうです。
しかし、一見華やかに見える成田空港も、その舞台裏にまわってみると、公務・民間あわせて約4万人の労働者が成田空港をささえています。しかも、24時間眠らない空港内は、超過密な長時間労働、過酷な労働実態のなかにあっても、乗客の安全を守り、国民の生活や健康を守るために、日々汗を流している職員の姿があります。
  私たちは、そうした成田空港に焦点をあて、そこで働く全税関や全運輸、全気象の仲間たち、外資系民間の航空会社ノースウエスト労組を新春特集として取材してきましたが、それは12月の全国活動者会議のテーマともなった「国民の中へ、国民とともに」たたかうことの重要性を足で確認したものとなりました。
 
仕事は増えても、減らされる人員
―ぎりぎりの努力で行政サービス守る仲間たち
 成田空港旅客第2ターミナル駅より地上に出ると、巨大なジャンボ機が雷にも似た爆音を響かせながら頭上を上昇していきました。駅より徒歩で10分ほどにある成田税関。そこが最初の訪問先でした。

旅客や輸出入の増大で過酷さを増す税関職場  〈全税関成田分会〉
 全税関成田分会(組合員28名)の書記長佐藤強さんは、「成田税関の仕事はとてもストレスがたまる職場です。1日3〜4万人の乗降客の携帯品の通関業務、さらには輸出入貨物の増大で業務量が増えて、職員は過酷な労働条件のもとで働いています。貨物の通関業務の職場では、朝は6時から深夜まで交代で業務をおこなっていますが、輸入量は1日約1万1千件を数え、とりわけ、99年の7月以降、税関当局の『24時間通関体制』によって仮眠時間の夜0時40分以降も、貨物の輸入申告があり、処理終了時間が仮眠時間にくいこむ実態になっています」と開口一番語ってくれました。
 林文昭書記次長は「そのため朝4時まで処理におわれたケースもありました。仮眠がとれない現状のもと、睡眠不足と健康不安の激増で、税関の現職死亡は他の省庁と比べて高率です。仮眠時間の確保が分会の切実な要求なのです」と、当局の「迅速通関・24時間通関体制」の歪みが語られました。
●労働条件を改善させ、民間労働者と共同を
「早く処理したいが人員不足」

 外国郵便は、99年11月の郵政通関局の再編以後件数が増加し、1日あたり約800個が未処理で滞留し、山積みになっているのが現状です。「便りがつくのを心まちにしている人のために、できるだけ早く処理したい。職員の増員を要求しています」と分会長の仲川勇さんは言います。
 さらに最近はインターネットを使って海外からの通信販売が激増し、個人通関部門は大忙しです。旅行者の通関を担当する旅具部門などでも、業務量に見合った要員が確保されず、満足な通関検査ができません。
  特別通関部門に勤務する中橋肇さんは「人を増やすだけでは真の解決にはなりません。私たちの労働条件以上に、民間労働者はもっと劣悪です。当局が推進する深夜通関は官民の労働者を過酷な実態に追い込んでいるのです」と語り、官民一体でたたかう重要性が浮き彫りになりました。
●外国郵便は1日2万個 
外国郵便のほとんどは成田に集中しており、1日約2万個を処理しています。また、X線をつかった検査や、麻薬探知犬で不正薬物や危険物の侵入を水際でくいとめています。

増える便数、過密したダイヤ、複雑な空域 〈全運輸成田分会〉
 国内外からの便数が増える午後3時以降、管制塔はピーンと張りつめた雰囲気につつまれます。
 成田で離発着する98%の飛行機が、機体の重いジャンボ機です。成田上空の複雑な空域から滑走路にジャンボ機をただしく誘導するため、冷静で的確な指示をおくる管制官たちも緊張を強いられます。
 「自衛隊の空域が複雑に入り組んでいることと、3時間余りの間に100便に近い過密したダイヤでは、一瞬も気を抜けません」と語る全運輸成田分会(組合員314名)書記長の下條龍三さんは夜勤明けの疲れも見せず、管制塔とレーダー室を案内してくれました。
●空の安全脅かす人員削減の動き
 「いま問題になっているのは、航空機の航行や航空管制に使用する機器のメンテナンスをうけもつ航空管制技術官が減らされることです。これらの仕事が民間委託されれば、きめ細かなケアや即時性がうしなわれ、空の安全や運行の定時制を損なうことになりかねません」と、鈴木重三郎書記次長は指摘します。
 運輸省が進めようとしている航空路監視レーダーでの24時間から13時間への勤務体制変更は、単に人員削減という効率化のみの合理化であり、空の安全を脅かすものであると熱っぽく語ってくれました。
●いきいき働く女性管制官
 「管制官は男性・女性区別なく仕事にやりがいがあり、チャンスもあります。緊急フライトなどの徹夜や転勤もありますが有意義な毎日です」と成田勤務4年になる井上久美さんは語ります。
 管制官で初めて育児休業を取得した塚本朋子さんは「1年間の休業はハンディとは思っていません。職場の仲間のあたたかい励ましがあったので、子育てに専念できました。少し遠回りをしても、子どもにあわせた働き方をしていきたい」と笑顔で語ってくれました。
  今、成田空港には、女性の管制官は12名、そのうち子育て中の方は4名で、私たちがお会いできたのは、おふたりでしたが、管制塔できびきびと働く姿はとても印象的でした。
●家族が読む機関紙づくり
 交代制勤務で顔を合わす機会も少ない組合員たちの、気持ちを一つにする重要な役割を担っているのが、機関紙「新東京」(月1回、A4判・8ページで400部発行)です。私たちが取材して驚かされたのは、この「新東京」は、毎月発行のたびごとに組合員が居住する公務員宿舎に編集委員の手で全戸配布され、まさに家族ぐるみで読んでもらっていることです。
 また、成田分会では、毎年平和行進に取り組んだり、空港内の国公の各単組や航空関連の民間労働者と共同して「空の日」の市民開放の空港見学会を縁の下でささえるとともに、「空の安全」をめざした「航空安全会議」に加盟して、幅広い活動に参加しています。

正確な気象情報を伝えたい 〈全気象成田分会〉
 管制塔に隣接する新東京航空地方気象台は、空港を離発着する飛行機に正確な気象情報を提供しています。 ところが気象庁は、昨年、通信課の現業職員を3名削減し、一人夜勤にしてしまいました。
●定員削減で危険にさらされる空の安全と人命
 全気象成田分会(組合員68名)書記長の西島幸紀さ んは、「気象観測や予報など情報を提供する上で、一人夜勤は大変です。もし、夜勤中に当直者が倒れれば、他の課でカバーしなければならず、気象情報の提供に支障をきたすことになります」と語り、分会長の俣野明彦さんは、「航空機の安全運航のために正確な気象情報を伝えるのが私たちの使命です。航空関係者に重宝されている雲解析情報図も、定員削減で廃止の動きがあることから、強く反対しています」と怒りをこめて語りました。
●女性の職域拡大で変わる気象の職場
 女性の技官として交代制勤務についている宇井今日子さんは「男性ばかりの職場ですが、気象は興味の持てる仕事なので、自然体で働いています」とさらりと語り、女性の職域拡大で変わりつつある気象の職場を垣間見ることができました。

日本の法律無視する経営者  〈ノースウエスト航空労働組合〉
 成田空港には、外資系の航空会社が約50社乗り入れています。
 成田市富里地区にあるノースウエスト航空日本支社労働組合(組合員400名) を訪ねました。
 「私は委員長を13年やっていますが、大半は解雇撤回闘争でした。過去、ノースウエスト航空の経営者は、日本の労働者には徹底した 人種差別的な政策で臨み、日本の法律を無視したさまざまな攻撃を組合員に対して仕掛けてきた歴史があります」と小室孝夫委員長はきびしい口調で語ります。
●3年かけて、結婚・妊娠理由の退職規定を削除
 組合は1987年、労働協約にある日本人スチュワーデスを対象とした「結婚や妊娠を理由とした退職規定」は、「男女雇用機会均等法」に違反すると廃止を要求しました。
 会社側は罰則規定がないのをいいことに完全に無視。国会でも取り上げられ、3年間のたたかいの中で、やっと結婚、妊娠理由での退職規定を削除することができたと言います。
 現在は客室乗務員(スチュワーデス)に対する「深夜勤務手当」の改善をもとめて、成田労働基準局にも訴え、たたかいをすすめています。
●戦争法成立でアメリカと同じ道歩むのか
 戦争法について、小室委員長は「私たちは外資系という立場上、反対の意志表示はできませんが、湾岸戦争でノースウエストをはじめ、アメリカの民間飛行機が物資や兵士の輸送などをしたことを思い出します。日本も同じ道を歩もうとしているのではないでしょうか」と、危惧を表明しました。
●保育所づくりは空港にはたらく女性共通の願い
 小室さんの所には、若い女性たちから「空港内保育所をつくってほしい」と要求が寄せられます。
 「24時間空港」をめざす成田は、空港業務が多岐にわたり、複雑化し、深夜勤務や長時間勤務がひろがっています。こうしたもとで働く多くの女性労働者は、結婚や出産後も働き続けることがだんだんむずかしくなっています。小室さんは「若い人たちが働きやすい職場環境をつくっていきたいのです」と夢と決意を語ってくれました。


21世紀へむかうこの一年を跳躍台に 〈国公労連中央執行委員長 藤田忠弘〉

 組合員とご家族のみなさん、新年あけましておめでとうございます。2000年を新たな決意と感慨をもってお迎えになったことと存じます。
 2000年が20世紀最後の年であることは申すまでもありません。言葉の素直な意味でいえば、世紀末ということになります。しかし、世紀末という表現は、あまりいい意味では使われていません。それは、前世紀末の否定面を想起するからだと思います。そうであるだけに、20世紀の世紀末は、新たな歴史発展の跳躍台であった、との評価をのちのちうけるような一年にできればと思います。
 20世紀全体の評価はさまざまです。一面では、戦争による甚大な犠牲、核軍拡競争、地球環境の破壊、人間疎外の深刻化など、人間文明の危機の進行という否定的側面があります。もう一面では、科学・技術の飛躍的な発展、平和と民族自決・人権と民主主義をめぐる各国人民のたたかいの前進など、人類の限りない可能性を確信させる肯定的側面があります。
 私自身は、この肯定的側面こそが20世紀を通ずる最大の特徴だと考えるのですが、下手をすると、人間文明の危機が加速しかねない状況にあるとも思います。その意味で、この一年は歴史の分岐点にあると思います。
 われわれ国公労働者の立場からしますと、この国の性格やかたちを、日本国憲法の理念にそって作りあげる道こそが、歴史発展の方向にそう道だと確信します。
 日本国憲法の破壊を許さず、逆に花ひらかせるための奮闘こそが、21世紀にむかうこの一年の歴史的課題ではないでしょうか。
●愛知県国公の宇野さんがCD発表
 愛知県国公の専従書記で現在、事務局次長を勤めている宇野進二さんが、自費出版でセカンドアルバムとなるCD「南から来た少年」を99年11月に発表しました。宇野さんは、沖縄が好きで沖縄をテーマに音楽活動を展開し、メーデー集会をはじめ、各種集会などで演奏活動をおこなっています。
●沖縄県国公は、宇野さんのCD「南から来た少年」をすいせんします
 ヤマトゥンチュ(本土の人)でありながら、沖縄が好きだという宇野さんのセカンドCD「南から来た少年」には、沖縄の人の心と、沖縄の豊かな情景がたくさん収められています。本土にいるウチナーンチュ(沖縄の人)には故郷を思わせ、ヤマトゥンチュのみなさんには少なからずとも沖縄を感じていただけるものと思います。
 沖縄はかつての悲惨な大戦で多くの尊い命が失われ、戦後は米軍基地の重圧に耐えながらも「命どぅ宝」をモットーにたくましく生きてきました。しかし日米両政府は、さらに機能強化された新たな基地を沖縄県民に押しつけようとしています。このような状況のもと、ひとりでも多くの方がこのCDを聴いていただき、沖縄に関心を持っていただくことを期待いたします。


沈まぬ太陽を心に持って

 −まともな労働組合に光あて、たたかう労働者を勇気づけるベストセラー
 『沈まぬ太陽』を書かれた山崎豊子さんに新春インタビュー


 記念すべき2000年の新春インタビューは、いまベストセラーになっている『沈まぬ太陽』(3部構成全5巻、新潮社)を書かれた山崎豊子さんです。
 航空会社の労働組合委員長として「空の安全」を求め会社とたたかったがために、カラチ、テヘラン、ナイロビと職場をたらいまわしにされる主人公を描く『アフリカ篇』。520人の犠牲者を出した「史上最悪のジャンボ機墜落事故」に綿密な取材で迫り、犠牲者の無念の思い、遺族の悲しみを、ドキュメント的な小説手法で描く『御巣鷹山篇』。航空会社の不正と乱脈、政官財のゆ着、利権をめぐる争いを描く『会長室篇』。全編を通して、まともな労働組合の存在がどんなに大切なものか痛感させられます。
 永藤成明さん(全運輸近畿航空支部関西空港事務所分会)と戸田伸夫さん(全国税近畿地連委員長)が、大阪にある山崎さんのご自宅に訪問し、お話をうかがいました。


やまさきとよこ 1924年大阪市生まれ。京都女専国文科卒業後、毎日新聞大阪本社調査部、学芸部を経て作家に。『花のれん』で直木賞受賞。『暖簾』『ぼんち』『女の勲章』『しぶちん』『花紋』『仮装集団』『白い巨塔』『華麗なる一族』『不毛地帯』『二つの祖国』『大地の子』など数々のベストセラー小説を発表している。
●アフリカで巡り会った現代の「流刑の徒」
永藤  私は、『沈まぬ太陽』の中に登場する全運輸の組合員で仕事は航空管制官ですので、この作品を興味深く読ませていただきました。胸をつかれ、涙を流すシーンがたくさんありました。最初に、この作品を書かれるきっかけについてお聞かせください。
山崎  前作の『大地の子』を書きあげてから、主人公の陸一心さんが私の胸の中に座ってしまって何も考えられなくなっていました。学生のころからキリマンジャロを見ながら死にたいというロマンチックな気持ちを持っていた私は、自分の気持ちをなんとか動かさなければとアフリカへ行くことにしたのです。私は未知の国に行くときは、時間をムダにしないように、その国をよく知っている人を探すことにしています。そのとき後に小説の主人公の恩地元さんの原型ともいうべき人に出会いました。
 ナイロビの空港に降りたつと、古武士のような東洋人が立っていて、それが「恩地さん」でした。翌日から四輪駆動の自動車でサバンナを案内してもらい、動物の生態やアフリカの歴史を聞きました。穏やかで何をたずねても造けいが深く、ご自身の見識を持っておられ、単なるアフリカ通ではないことが感じられました。あれこれお聞きしていると、元航空会社の社員としての経歴を、ポツリポツリと話してくださいました。
 私は、アフリカの自然を見にきたのに、アフリカの大地で今の日本ではなかなか会うことができない日本人に出会えたと感慨を持って帰ってきました。
 それからあらためて、あなたをモデルに小説を書かせていただきたいとお願いにいったのですが、最初は「私の人生は、他人にわかるはずがありませんので、ご辞退します」と拒絶されました。それでも何度かお願いし了解を得て小説に書かせていただきました。
 取材を始めますと、まさに現代の「流刑の徒」だと思いました。航空会社の労働組合委員長として、「空の安全」を守るために利益優先の会社とたたかい懲罰人事で10年間も中東、アフリカへ左遷させられ、国内の組合員も一般社員から隔離され、差別される。名前を「恩地元」としたのは、大地の恩を知り、物事の始めを大切にするという意味を込めたものです。
●不条理を許さない人間としての誇り
戸田  会社は、労働組合を分裂させ、第二組合を育成し、まともな労働組合をつぶそうとした。じつは私たち全国税も国税当局によって同じような扱いをうけてきました。政府が高度経済成長政策を打ち出して、低所得層から税収をあげるという不公平税制を推進しようとしたとき、全国税も「それはおかしい。税金は払えるところからとって配分すべきだ」と主張しました。それに対して政府は、大企業や高額所得者の利益を優先するために、じゃまな全国税を分裂させ、第二組合を育成した。全国税も差別など様々な攻撃を受けていますが、国民のための税制をつくらなければと奮闘しています。主人公があれだけの仕打ちを受けても、スジを通してたたかったことを知って、私たちは大きな勇気を与えてもらっています。
山崎  彼だって人間ですもの、つらかったと思いますよ。仲間も言います。「僕らは仕事が終われば家族がおり、友人と語れる。あなたは365日、24時間孤独ではないか」。でも、自分が節を曲げたらこの組合はだめになる、「空の安全」は守れなくなるという思いがあるのですね。
 組合員は「あなたが存在しているだけでいい。はるかアフリカの地でもどこでもいい、あなたががんばっていると思ったら、やはり私たちも辞められない」と言い、彼は「私が辞めたら悲しむ仲間がいる。その一方で丸の内の本社で祝杯をあげる会社や第二組合の人間がいると思うと辞められなかった」とおっしゃいました。彼には不条理は許さないという激しい怒りがありますね。会社側や御用組合がしいる不条理を受け入れることは精神的奴隷にほかなりません。やはり、不条理を拒否する意志の力と人間としての誇りが彼にはあったのだと思います。
 小説には書きませんでしたけれど、彼が10年にわたる左遷から日本に帰られたときに、組合員の方々の家を訪ねて回ったそうです。「私についてきたために職場で差別を受け、ご家族にもご苦労をおかけしました」と。これだけの人に出会えて作品を書かせていただき、私は本当にしあわせだと思います。
戸田  ご家族の方も苦労されたでしょうね。
山崎  そうですね。奥様にいちばんつらかったことは何ですかとお聞きしますと、「子どもに、どうしてうちのお父さんは帰らないの?と聞かれて、言いきかすのがたいへんでした」と答えられました。奥様は、子どもさんに「お父さんにはお仕事がある。それはお父さんにしかできないお仕事なのよ」と言ってきかせていたそうです。
 それに、子どももどこからか聞いてくるのですね。「左遷ってなに?」と父親に聞きます。「お父さんは、何も恥ずかしいことはしていない。だけど一生懸命いいことをしてもうまくいかない場合がある。それはお前が大きくなったときにわかるよ」と話したそうです。でも「やっぱり、つらかった。自分の節を通すために妻子をここまで犠牲にしていいのか」とつぶやかれました。
●泣きながら書いた場面
山崎  テヘランの空港で日本へ帰る奥様が、二人の子どもの手を引いて搭乗機に向かっていきます。彼は、アフリカへ向かう飛行機に乗る。そのときに、「声をかけたけれど、妻は振り返らなかった。その後ろ姿を見ながら泣きました」と話してくださいました。私はこの場面を小説に書くとき、泣きながら書きました。奥様に会って、「なぜ振り返らなかったのですか」と聞きました。「振り返ったら崩れます」と奥様はおっしゃいました。会社はこんなことまでしていいのでしょうか。私は、このことを知って、航空会社がどんなに取材を妨害したり、誹謗中傷してこようと、最後までこの作品を書きあげなければいけないと思いました。
永藤  航空会社は、取材を妨害してきたのですか。
山崎  あの会社は、あれだけのことをして、反省もしないで「組合側にたった一方的なでっちあげの小説だ」という怪文書を流し、一部のマスコミが掲載しています。どこまでも低次元な会社で怒りを通りこして今はあきれはてています。
永藤  そういう航空会社の対応では、取材にもたいへんな苦労があったのではないでしょうか。
●今でも夢でうなされる地をはうような取材
山崎  最初、その航空会社の各職場を取材してから、それぞれの部署の担当役員のお話しをうかがいたいと申し入れますと、広報部長から「役員には責任があるから会わせられません」と突っぱねられました。
 それで取材は、その航空会社のOBの良心派と社内にいる良心派の協力で進めることになり、地をはうような取材となりました。とくに社内の人は本当によく協力してくださいました。もし私とコンタクトをとっていることが会社にわかると、進退にまでかかわるかもしれません。
 それから、航空会社ひとつにしても、整備、パイロット、運航、営業、計画等々と、職種は多岐にわたっていますからこの作品の取材はたいへんでした。『大地の子』の取材もたいへんだったのですが、あのときは広い大地の中でここという場所を見つければ、あとはずっとそこを掘り下げていけばよかったのです。でも今回は多方面にわたっていたので、今でも夢でうなされるのは、原稿を書いている姿ではなくて、取材しているときなんです。
 もう一つの取材の苦労は、名誉毀損で訴えられないようにするために、神経を尖らせて細心の注意をし、業者の納品書や領収書なども全部コピーして持っていなければいけなかったことです。小説を書くエネルギーもたいへんでしたが、本来なら不必要なエネルギーも消費しました。
●声なき声に支えられた『御巣鷹山篇
永藤  私たち全運輸も「空の安全」を守るために様々な運動をくりひろげています。私は一昨年まで沖縄で航空管制の仕事をしていました。沖縄の空域は米軍がわがもの顔で管制をにぎっていて、民間機の飛行が制限され、安全上問題があります。沖縄支部は、そういう問題を改善しようとがんばっています。また、航空会社の労働組合の仲間とも協力して、ニアミスや、事故の問題など様々な「空の安全」を守るための取り組みをすすめています。実際の航空機事故をあつかった『御巣鷹山篇』は、私たちにとって特別の感慨があります。この巻に込められた思いをお聞かせください。
山崎  出版社の話では、『御巣鷹山篇』を先にお読みになって、こんな事故をおこす会社はどんなところかと『アフリカ篇』を読む、それから事故後どういう改善をしてくれたかということで『会長室篇』を読まれる読者が多いそうです。
 『御巣鷹山篇』では、やはりご遺族の取材がいちばんつらかったですね。ご遺族の方には「せっかく忘れようとしているのに、心を切り裂くようなことはやめてほしい」と言われ、「遺族の悲しみは遺族にしかわかりませんよ」と、取材に応じていただけなかったのですが、何度もお願いしてようやく応じていただけるようになりました。
 多くのご遺族の話をうかがえても、520人のご遺族のすべてを書けませんので、最後のお遍路になって巡礼に旅立つ老人の姿にご遺族の心を凝集させていただきました。じつは、あのお遍路姿のご遺族のその後について、読者からの問い合わせが多いのですが、あれは、創作なんです。読者の方から「あのお遍路姿に仏の顔≠見た」という、もったいないお言葉をいただきました。作者として、これほどありがたいことはありませんでしたね。
 心に残ったのは、墜落する機内で妻子に書きのこした河口博次さんの遺書です。家族に対する深い愛情と人間の尊厳に満ちた言葉を、あの状況の中で書き残したことに感銘しました。じつは奥様にお願いして手帳を見せていただきました。横書きにぐっと大きく書いた上下左右に揺れている文字を見たときには涙が止まらなかったですね。
 それと遺体検視の取材もたいへんでしたが、群馬県の医師会と歯科医師会の先生方が協力してくださって、無惨な遺体検視の実相を書くことができました。未公開の写真を見せていただきましたが、『白い巨塔』の取材のときに見た手術や解剖の比ではありませんでしたね。
永藤 事故原因についても、丹念に取材されていますね。
山崎  分厚い『事故調査報告書』も全部読んで、報告書を書かれた先生方にもお話をうかがい、ボーイング社にも取材に行きました。ボーイング社には、「すでに国家間の話し合いによって、すべて終わっている問題に、なぜあなたがこだわるのか」と聞かれました。「国民感情としては、これだけの大事故を起こして、責任者が出ない、だれも罰を受けない、そんなことは納得できない。私は作家として、読者という国民を代表して聞いているのです」と言いましたが、答えませんでしたね。
 事故機の隔壁を修理した作業員の名前もわかっていますが、もう会社にはいないと言うだけでした。あれだけの事故に対する贖罪の念はまったくありませんね。極論を言ってしまえば、広島で一発の原爆により20万人を殺したボーイング社ですから、贖罪の念はないのは当然なのかも知れません。私は恩地さんほど忍耐強い人間ではないですから、ボーイング社のあまりの対応にもう投げ出したくなりました。こんな取材の困難にあうたび、何度も挫折しそうになりましたが、やはり支えてくださったのはご遺族と520人の声なき声でした。本当に無念な思いで亡くなられたと思います。東京・大阪間の便、あれは私もいつも乗っている便ですもの。あんなところで誰も死ぬとは思わなかったことでしょう。河口さんの遺書にも「本当に残念だ」と書いてありますね。
●なくしたい政官財ゆ着―不毛地帯の日本を警告したい
戸田  私たちは国家公務員の労働組合として、特権官僚の天下りや企業団体献金などを禁止して政官財のゆ着をなくすことが、本当の行政改革の大きな課題の一つだと主張して取り組みを進めています。最後の『会長室篇』では、航空会社をめぐる政官財のおぞましいゆ着・腐敗が描かれていて、私たちも大蔵官僚の腐敗をまのあたりにしているだけに、本当に腹立たしい限りです。この『会長室篇』に込められた思いをお聞かせください。
山崎  「カネ、カネ、モノ、モノといって、日本はいま精神的不毛地帯になりつつあることを警告したい」と、私が『不毛地帯』という作品で書いたのは21年前です。
 ところが、『会長室篇』を書いていて、21年前と日本は何も変わっていないと思い、ゾッとして、不気味な恐ろしさを感じました。それでも、私は警告し続けたいと思います。
 私は戦中派です。原稿に向かうとき、私の心にあるのは学徒動員のことです。男子は特攻機に乗って雲の向こうに死んでいき、私たち女子学生は全員、大学2年で軍需工場へ動員されました。そして、飛行機工場に動員された友人はB29に爆撃されて死亡しました。そのなかで生き残ったものとして、なまなかな生き方はできない。なまなかなものは書けないという思いがいつもあります。
 寂しいのは使命感を持った友人が少なくなっていくことですね。『華麗なる一族』など私の作品を映画化してくださった山本薩夫監督が生きてらっしゃったら、『沈まぬ太陽』も映画にしてくださったのではないかと思いますね。
●まともな労働組合に光あて、たたかう労働者を勇気づける
戸田  私たち労働組合でがんばっている仲間は、『沈まぬ太陽』で「空の安全」を願い労働者や国民のためにたたかうまともな労働組合の姿に光をあてていただいたことで、たいへんはげまされています。
山崎  今回の作品には、労働組合でがんばられている方からお手紙をたくさんいただきました。その中の一つで、涙が出るぐらいうれしかったのは、「『沈まぬ太陽』を読む前と後で私は確かに変わった。何が変わったかというと、勇気を持つことができた」と書いていただいたことです。また別の労働組合の方からのお手紙には、「私たちが一生懸命がんばっているのをわかってくれる作家もいるのだなとうれしくなった」とありました。リストラにあわれた方からも「恩地さんのあれだけの信念と不屈な精神に勇気づけられた」とありました。
 一方、会社といっしょになって、まともな労働組合をつぶそうとする第二組合の方は、私の頭では考えられなかった組合でした。組合幹部が組合員を搾取≠キるなんて考えられませんでした。私は三池炭坑でのたたかいなどで労働組合は労働者のためにたたかうものだと思っていましたからね。そういう意味でも、労働者のために、まともな労働組合にがんばっていただきたいと思います。
●ただすべきことただし、国の行政をよくして
戸田  最後に、私たち国家公務員労働者へのメッセージをお願いします。
山崎  私の座右の銘としているゲーテの言葉をおくります。
 「金銭を失うこと。それはまた働いて蓄えればよい。
 名誉を失うこと。名誉を挽回すれば、世の人は見直してくれるであろう。
 勇気を失うこと。それはこの世に生まれてこなかった方がよかったであろう」
 なんときびしい言葉でしょうか。どんなに正しいことを考えても、それを実践に移すのは勇気なんです。この言葉を互いに肝に銘じていきましょう。
 たいへんな時代ですが、沈まぬ太陽を心に持って、ただすべきことはただして国の行政をよくしていってください。
永藤・戸田  長い時間、ありがとうございました。(編集担当=井上伸)

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